暑さのために目が覚めた。
背中にべっとりと汗をかいている。
窓から太陽の光が差し込んでいて、すごく眩しい。
梅雨の最中だというのに今日は天気がいいらしい。
昨日は遅くまで試験の勉強をしていたため、少し寝不足だった。
もう一度寝ようと思ったが、この暑さではもう一度寝る気にもなれなかった。
それに休日とはいえ、そろそろ起きなくてはまずいと思い、
諦めて体を起こした。
台所で軽く昼食を食べ、食器を片付けた。
汗をかいていたので軽くシャワーを浴びた。
歯を磨きながら新聞を読んだが、興味深いニュースはなかった。
そして靴を履き、かかとを二回鳴らし重い玄関の扉を開けた。
まず第一に真上にある太陽が眩しかった。
しばらく直視して目を閉じると暗闇の中に太陽が浮かび上がる。
まぶたをこじ開けてまで太陽は俺の目の中に入ってくる。
太陽というものは図々しい。
家の前の道路にはまだ水溜りがある。
雲ひとつ無い空が水面に映っている。
俺が踏みつけると音も無く水面に映る空は消えた。
振り返る気もしなかった。
今日も俺は彼女の入院している隣町の病院へと行く。
病院の近くの古ぼけた果物屋で林檎を買って。




























棺の中で林檎をかじる



































林檎の入ったビニール袋を持って店を出た。
軽いはずの三つの林檎が、今は少し重い。
店を出るとすぐに右に大きな病院が見えてくる。
病院の庭は患者のためを思っているのか、緑がやたら多い。
こんな都会にここまで緑があると少し不自然だ。
患者と思われる人もたくさんいた。
きっと久しぶりの天気が喜ばしいのだと思う。
太陽の日差しが強く、彼女が入院する前に
紫外線がどうだと言っていた事を思い出した。
庭を通過し、椅子用の斜面の通路を通り自動ドアが開く。
この鼻を刺すような薬物の匂いはいつ来ても変わらない。
待合室では点滴をぶら下げて歩く老人や、
母親に手を繋がれて歩く子供、色々な人がいる。
いつもの看護婦に挨拶をされたので軽く頭を下げた。
すっかり顔を覚えられているようだ。
中央のNHKのニュースを素通りして薄暗い階段を登る。
五階まで登り、長々と続く通路を行く。
先ほどの待合室とは違って、病室の前は人が少ない。
静まり返った独特の雰囲気だけが漂っている。
俺の足音だけが不気味なほどに向うの壁に響いている。
そして小さなバタバタと走る足音が背後から近づいてきたので、
少し驚き後ろを振り返った。
それと同時に小さな女の子の患者が、走りながら俺の横を通過していった。
七歳か八歳ぐらいだろうか、見る限りでは。
足音はだんだんと離れていき、女の子はすぐに角を曲がり見えなくなった。
見えなくなった後も微かに足音が聞こえていた。
一番奥まで行くと、彼女のいる小さな個室がある。
少し躊躇いながら、息をのみノックをして扉を開けた。










「いらっしゃい。」
「…どう?調子は。」
「変わらないよ。でも今日は天気もいいから、調子もいいみたい。
 ほら、今日は点滴もないでしょう?」
「そっか…それは良かった。」




俺は軽く安心した。
ベッドの上で本を読んでいた彼女はいつもより元気そうだった。
顔色も少し良さそうに見えた。
彼女は読んでいた本にしおりをはさみ、横の机に置いた。
見覚えがあった、この前頼まれて買いに行った本だ。
看護婦がカーテンを開けてくれたのだろうか、いつもより部屋は明るく感じた。
そのせいか彼女の表情も少し明るく見えた。
窓が数センチ開いていて、微かな風が彼女の髪を揺らしていた。




「途中じゃなかったのか?その本。」
「ううん、もういいの。せっかくのお客さんだしね。」
「読みたい本は他にない?」
「うーん…最近話題なのは全部読んじゃったしな。
 小説はな…うーん…どうだろう。
 法律の本でも読んで貴方みたく勉強してみようかな。」
「憲法を見ただけで頭が痛くなるのにかー?」
「あはは。やっぱり向いてないかな。
 貴方みたく頭が固くなっちゃうかもしれないし。」
「法律イコール頭が固いというイメージはどうかと思うけど…。」
「でも素敵だよね、弁護士の奥さんなんて。」
「まだ司法試験すら受けてないけどな。」
「大丈夫、貴方なら受かるよ。」






彼女はいつも通り笑って話をしていた。
彼女は去年の冬から病気を患い、入退院を繰り返している。
この前来た時に、来月に手術があると笑って話していた。
いつもは点滴をぶら下げているのだが、今日は彼女いわく調子がいいらしい。
彼女は前々から弱みを人に見せない性格だから。
楽しい時に楽しいと言い、苦しくても楽しいと言う。
横の机の上には折り紙で作った小さなウサギが置いてあった。
彼女は前々から手先までも不器用だったから、
彼女が作ったとは思えなかった。




「その、折り紙…。」
「あ、これ?可愛いでしょ?ウサギだって。
 由美ちゃんが作ってくれたの。お姉さんにって。」
「ああ、あの七号室の子か。(多分、来る時にすれ違った子だ。)」
「そうそう。明後日退院なんだって。いいなぁー。
 最近の小さな女の子ってみんな器用なのかな。
 私も鶴くらいなら折れるかな。あ、でも記憶があやふや。」
「鶴だったら俺にだって作れる。」
「本当?なんかイメージと違うなあ、ははは。
 じゃ今度に看護婦さんに頼んで買ってきてもらおうかな、折り紙。
 貴方に買いに行かせる訳には行かないもんね。あははは。」
「…………。」
「あれ?怒った?」
「いや、別に。」
「あははは、あ!また林檎買って来てくれたの?」
「好きなんだろ?二個買ったら店の人がもう一つくれたんだ。」




俺はぶら下げていたビニールから赤い林檎を一つ取り出した。
そして机の二段目から果物ナイフを取り出し、
残りの林檎の入った袋を机の上に置いた。
「むいてくれるの?」
「お前むけないだろ。」
「皮くらいむけるよー、調理実習でやったもん。」
俺は料理は出来ないけど、林檎の皮をむくのだけは得意になってしまった。
はっきり言って林檎の皮がむけたってなんの役にも立たない。
隅の洗面台へと行き、手を洗って林檎にナイフを入れた。
林檎のシャリシャリと言う音が室内に響いていた。
その音に紛れて、彼女が小さな声で呟いた。




「ねえ…。天気がいいから、外…行きたいな。」
「今は外に出るのはまずいだろ?看護婦にも止められてるだろ。」
「だけど、だってこんなに天気がいいんだよ?」
「天気がいいからって言われた事を破る訳にはいかないだろ。」
「そうだけど……いいでしょ?ね?」
「許しが出れば、な。」
「もー…ケチ。」




俺は彼女に背を向けたまま洗面台でひたすら皮をむいていた。
後ろでごそごそと音がした。
おそらく彼女がいじけて、布団の中にもぐったのだろう。
外に出たいと言うのは言うのはいつものことで、
こうしていじけるのもいつものことだ。
そしてすぐにコロっと忘れるのもいつものこと。
林檎の皮をむき終わり、近くに置いてあった皿を軽く水で洗い、
その中に林檎を入れた。
三本の長い皮を拾い、一番長いものを見て
何センチ行ったかなんてつまらない事を考え、すぐにゴミ箱に捨てた。
捨てた皮の下の大量の薬の包装が眼に入った。
前に昼に彼女が飲んでいたのを見た事があったけれど、
明らかに量も種類も増えていた。
彼女の方に目をやると、思ったとおり、布団の中にもぐっていた。
そして俺はまたゴミ箱の中に目線を移した。
これだけの量を一気に飲んだら、逆に喉が詰まりそうだ。
一体何種類の薬をどれだけ飲んでいるのだろう…。
でも今は考えるのをやめて、何事も無かったかのようにふるまった。




「食べないのか?」
「……食べる。」
「早く食べないと色が悪くなるよ。」
「判ってるよー。」
彼女は渋々と布団から顔を出し体を起こした。
俺が彼女の手に皿とフォークを渡すと、
嬉しそうに細い手で林檎を取り一口かじった。




「おいしいー。」




その一口が本当に一口だった。
彼女は絶対に林檎を食べきることはない。
この薬の包装といい。
それでもおいしそうに林檎をかじる彼女を見ていると
色々な事を考えてしまいそうで怖くなった。
俺はただ見ているだけの、傍観者にすぎないのだろうか。
何千もの霧のように曖昧な考えが脳の中を駆け巡ったように気分だった。
彼女を見ているとその何千もの考えがもっと鮮明に脳に映し出されそうで、
俺は怖くなって、一瞬彼女から目を反らした。



















ずるい、人間。



















「食べないの?」
「…俺は、いい。」
「ふーん。おいしいのに。」
「何か、必要な物はない?買ってくるけど。」
「んー…なんだろー…。今は特に無いかな。
 必要になったら言うよ。あ、可愛い服が欲しいなぁ…
 毎日パジャマばっかりで嫌になっちゃうもん。」
「服を買いにいけって…?」
「ははは。冗談だよ。でも退院したらいーっぱい買ってもらおっと。
 あと化粧品も欲しいし、新しい香水も欲しいな。
 それから、靴も欲しいし、バッグも欲しいな。」
「待て!俺のバイト代が、」
「それから映画も見に行きたい。あとまた海にも行きたい。
 あ!海に行くには水着がいるね。今年は何色が流行るのかな。」
「………。」










沈黙が何よりも重たかった。
今、彼女は海について話していたが、
彼女の頭の中には青い太陽が照らす様な海が広がっている訳ではない。
広がるのは底の無い…ただ暗いだけの、海。










「………あはは、なーんて。今年は海は無理だね…。」
「海なんて行って、もろくな事はないよ。」
「そう…かな。」
「それより、来月手術があるんだろ?それが先だよ。」
「そっか。来月だっけ?あははは、すっかり忘れてたよ。」
「お前が言ったんだろ。」
「あれー?そうだっけ?私、頭までおかしくなっちゃったのかな。
 あははは、笑えないやっ。」











何を言ったらいいか判らなかった。
頑張れば治るよ、海にいけるよなんて根拠のない事は口が避けてもいえない。
それは彼女の様態を見てれば誰もが判ることで、
彼女自身が痛いほどに一番判っている。
俺からの根拠のない励ましなんて、なんの役にも立たない。
自分がもし彼女の立場だったらとか考えた。
小学校の頃の道徳の時間にならったあれだ。
「人の気持ちになって考えよう」というやつだ。
だけど彼女の苦しさなんて仮定したって仮定しきれない。
他人が想像できるほど軽いものではないのだ。
小学生の頃に習った道徳がどれだけ無意味なものか、思い知らされた。












「始めはね、この病室もいいかなーって思ってたんだ。 
 ほら、そこの窓から庭が見えるでしょう?
 緑がいっぱいで、色んな人がいて、風も本当に気持ちがいいの。」
「そうだな。さっき、来た時に俺も思った。」
「でしょう?貴方も毎日のように来てくれるし。いつもより優しいしね。」
「いつもより?」
「あはは、嘘だよ。看護婦さんも院長先生も優しいし、
 小さい子とも仲良くなれるし。隣の病室の山田さんいるでしょう?
 ほら、いつもお花くれるおばあちゃん。この前、手芸教えてもらったの。」
「上達したのかー?」
「どうだろうなぁー。山田さんは上手って言ってくれたよ。」
「お世辞の上手いおばあさんだな。」
「うわぁーヒドイ!!」
「冗談だよ。」
「貴方でも冗談が言えるのね、あははは……でね、最近よく考えるの。」
「何を?」



















「最後の日の事。」
















一瞬で空気が変わった。
沈黙に重なり合うのは庭から聞こえてくる子供の笑い声。
緑の風が部屋中に入ってくる気がした。
俺のすぐ横を通り過ぎ、彼女の髪を揺らした。
遠くでエレベーターのボタンの音がした気がした。
だれかが走る気がした、さっきの女の子だろうか。
病院内の呼び出しの放送が遠くで流れていた。
それでも彼女の目は優しいままだった。
何かを訴えるように瞳孔の奥が叫んでいるように見えた。
彼女は俺から目を離し、右下に目線を落した。
そして何秒後かに、窓の外を見て、もう一度俺に視線を戻した。
俺は言葉を発しようとしたが、何かに口を抑えられているようで
しばらくうまく言葉が出なかった。
たった数秒の世界だったが、何分にも何時間にも感じた。
今気づいたけれど、彼女はもう林檎は要らないらしく、
横のテーブルに置いていた。
その林檎はたった今皮をむいたばかりなのに、もう変色していて。
そしてやっと喉から(正確には脳から)言葉が出た。
覚えていないが、おそらく本当にどうでもいい言葉だったと思う。
























「また、根拠のない事を。」
「この病室は好きだよ。さっき言った通り、色んな人がいるし。
 何よりも貴方が毎日来てくれる。それだけで私、幸せ。」
「だから、まだ判らないだろ。」
「判らないよ、判らないから言ってるんだよ。
 もしかしたら明日死んじゃうかもしれないんだよ?
 そしたら貴方に会うのはこれが最後になるんだよ?」
「だから来月に手術があるんだろ?
 どうしてそんなに神経質になる必要があるんだよ。」
「……神経質?」
「ご、ごめん…。いい過ぎた。」
「ううん。いいの別に。だって本当の事だもの。
 どうせ貴方は気づいてるでしょう?薬の量が増えたこと。
 まるで薬に生かされているみたい。自分の力じゃもう無理なのかな。
 本当は死んじゃってたりして。あははは。」
「そんな死ぬとか軽く言うな!俺には薬の事は判らないけど、
 現にお前は今、俺とこうして話してるだろ、
 じゃあ何だ、俺は死人と話してるって言うのかよ?」
「そうだね、死人と話す程、貴方は馬鹿じゃないもんね。
 じゃあ死んだら…もう二度と私とは話はしてくれない?」
「だからそう言う意味で言っているんじゃなくて!」
「判ってるよ、そんなの!」
「だったらどうして……きっと、疲れてるんだよ。
 今日はもう寝ろよ。面会時間終わるまで俺もここにいるから。」
「もう、疲れたよ…。」


















彼女は細い両手で頭を抱えて黙り込んだ。
またさっきと同じ沈黙がやってきた。
自分の心臓の音が高鳴っているのが判った。
俺も少しムキになりすぎたかもしれない。
だけど今回は彼女の手が微かに震えているのが見えるだけで、
あとは何も聞こえなかった。
手を伸ばすのに少し戸惑ったけど、彼女に近寄り彼女を抱きしめた。
背中を軽く叩いてやった、頭も撫でてやった。
まるで小さいやんちゃな子供をあやすかのように。
「今日はクマのぬいぐるみは買えません。
 だけど泣かないで、今日は貴方の好きなグラタンにしましょう。
 だから誕生日までは我慢できるよね?」
…これは昔、母さんが俺に言ったセリフだ。
どうして今、こんな事を思い出すのだろう。
一瞬だけ彼女が反応した気がしたが、沈黙はまだ重く重なったままだった。
彼女の心臓の音も高鳴っていた。
クマのぬいぐるみの代わりに、俺は何をすればいいのだろう。






















「本当はね…。」
「うん、」
「怖いんだ。」
「…うん。」
「何が怖いかって聞かないの?」
「…何が怖いんだ?」
「あはは、ちゃんと聞いてくれるんだ。
 うん、怖い…貴方と離れる事が。























だって…棺桶の中には貴方はいないでしょう?



















 焼かれるのは熱くても我慢できるよ。
 だけど真っ暗で一人ぼっちなのには耐えられないよ…
 看護婦さんも院長先生も、仲良しの子も、おばあちゃんも誰もいない…
 林檎も食べれないし、何より…貴方がいない。」














「俺だって、怖いよ…。」


















今の俺の喉は何でも通ってしまう。
俺が思ってきた事、感じてきた事、全てが出てしまう。
彼女の前では冷静にいようと思った。
彼女が弱みを見せないから、俺も弱さをみせまいと思った。
それと同時に、
布団の上に彼女の大粒の涙が落ちて、広がっていった。
入院してから彼女は一度も泣くことは無かった。
「どうして私が」とか不満などは一切言わなかった。
本当は言いたかったと思う、俺が帰った後に、
一人で壁に向かって言っていたかもしれない。
俺は判っていた、判っていたけど、怖かった。
いつ彼女の口から今日みたいな言葉が出るのか。
もし出たら俺は何て返せばいいか判らないから。
俺はそんな彼女の強さに隠れて、冷静な自分を装ってきたんだ。
ずるい、ずるい人間。
でも今はそんな自分の事はどうでもよかった。


















「俺だって、この部屋に入るのが怖い。
 もしお前に何か起きていたらとか、お前は眠っているだけでも、
 もしこのまま目を覚まさなかったらとか、思って、」
「うん…だから、ちゃんと起きてるでしょう?貴方が来る時間は。」
「…知ってる。」
「ごめんね、自分だけが不幸みたいな言い方して。
 私、判ってたよ。最近、貴方が私の事あんまり見ないの。」
「いや、それは、」
「いいの。私だって貴方を見るのが辛いもの。
 どんなに笑っても、貴方と話してもこの体はいう事、聞いてくれない…。
 私、死にたくない…貴方と離れたくない…。
 ………ごめんね、もう言わない。忘れて。」
「棺桶…もし、もしもだけど、お前が入れられて、土に埋められたら…」
「うん。」
「俺が、」
「貴方が?」
「俺が、土を掘り返して、ふたを開けて、出してやるから…。
 そして前みたく、起こしてやるから…。」
「前みたく?」
「お前、朝弱いだろ。だから、俺が毎朝電話かけたり、
 部屋行ったりして起こしてただろ。忘れたのかよ…。」
「そっか…そうだよね。」
「だから…平気、怖くないよ。一人には…しない。」
「うん、うん。」
「だから、ちゃんと起きろよ…。」
「うん…うん。ありがとう。もう私、変なこと言わないよ?
 …だから貴方も、もう泣かないで。」
「俺が?」

























彼女に言われて初めて、頬を伝う物の存在に気がついた。
顔をあげて、彼女の顔を見た。
顔を上げた勢いで涙が頬を伝って彼女の布団の上に落ちた。
涙のせいでぼんやりしていたが、彼女は泣きながら笑っていた。

そして自分より先にパジャマの裾で俺の頬の涙をぬぐってくれた。
自分が泣いてたなんて気づかなかった。
男が泣いて格好悪い気がするけれど、今はどうでも良かった。
もう何も虚勢を張る必要はどこにもない。
彼女の笑顔を見たら、もうなんでも出来る気がしてきた。
病気が何だ、彼女は笑っているんだ、俺はそれだけを信じればいい。
最後に泣いたのは、そうだ、さっき思い出した、クマの時だ。
その後は、その後はあまり覚えていない。
彼女は笑っていた。
彼女?
気づいたら面会終了時間が来ていた。
























棺の中で林檎をかじる



























俺はたった今、依頼人の相談を受け、仕事が一段落着いた所だった。
今回の依頼はあまり大きなものではなく、すぐに片付いた。
少し本を読もうと思ったが、頭に入らないのでやめた。
まだ夕方だったが、事務所の電気を消して、家へと帰る事にした。
信号を渡っている時に携帯が鳴っているのに気づいた。
友人からだった。いい予感はしない。
『はい、』
『あ?今平気か?』
『ああ。今、仕事が終わった所。』
『お!いいね!今さ、5人くらい集まってんだけどお前もどうだ?
 駅前に新しく店できたろ?割引券あんだよ。』
『いや、俺は今日はいいよ。』
『いいじゃんかよ、なあ?』
『良くない。』
『硬いこというなよー。』
『疲れてるんだよ。また誘ってくれよ。じゃな。』
たった数十秒の短い会話だった。
気にすることもなく、家へと帰る。
足元が濡れて、水溜りが何個も出来ていた。
事務所にずっといて気づかなかったが、雨が降っていたのだろうか。
雨上がりの空というか、辺りは雨の匂いでいっぱいだった。
傘を持って下校する小学生が横を走って行った。
水溜りには夕日がきれいに映っていた。
俺は踏まないように、避けて通った。
事務所から家までは比較的近く、徒歩で十五分程度だ。
家に着き、台所の電気をつけて手を洗ってウガイをした。
二階から誰かが降りてくる足音がした。















「おかえり。」
「なんだ、いたのか。」
「いたのかはないでしょ、お部屋お掃除してたのに。」
「悪い悪い。」
「ね、お腹すいた。林檎食べたいー。林檎むいて。ね?」
「俺、疲れてるんだけど…。」
「せっかく早く帰ってきたんだからいいでしょー。」
「せっかく早く帰ったんだからゆっくりさせてくれよ…。」
「おーねーがーいー。」
「あー…判った、判った。」
「林檎むくのだけは上手だもんね。」
「だけはってなんだよ。まぁ、あまり自慢できる事ではないけどな。」
「あたしも練習しよっかなーウサギさん作れるかな?」
「お前はまだ危ないよ。」
「ま、いいや。パパがむいてくれるし。」
















「ただいまー。」
「あ!ママが帰ってきた!」
先ほどまで林檎の話をしていた娘は
すっかり忘れたかのように玄関へと走って行った。
娘は今年で五歳になる。
俺も玄関へと向かった。
彼女は、いや妻は夕食の買出しに行っていたようだ。
「ママお帰り!」
「ただいま。ちゃんとお留守番出来た?」
「うん、二階のお掃除してたの。」
「本当?助かるわー。あら、貴方帰ってたの?早いじゃない。」
「今回の依頼はすぐに片付いたんだ。」
「あ、あの例のやつね。お疲れ様。
 じゃあ、今日は頑張っておいしいもの作っちゃおうかな。」
「ママー。今ね、パパが林檎むいてくれるって話してたの。」
「本当?じゃ、ご飯の前にお茶しよっかぁ。」
「ま、待てって。」
















彼女は手術に成功し、その後も順調に回復していった。
その年の秋に彼女は退院した。
もう海の季節は過ぎていたけれど。
どうでもいい事だが、その次の年に俺は司法試験に合格した。
そして今は弁護士として働いている。
結婚した後に子供も生まれ、こうして生活を共にしている。
彼女は料理もやるし、手芸だってやるようになった。
だけど林檎の皮だけは絶対に自分でむこうとはしない。
むけるのか、むけないのかは判らないが。




















「お仕事は順調みたいね。」
「おかげさまで。」
「それじゃあ今度の休み…晴れたらみんなで海、行かない?」
「海?!あたしも行きたいー!!!」
「今度の休み…何かあったかな…。」
「パパー行こうよー行こうよー。」
「うーんと…多分、平気かな。多分。」
「多分って何よ。また仕事が入ったとかいってキャンセルする気?」
「いや、絶対平気。絶対平気。」
「良かったね、パパが可愛い水着買ってくれるって。」
「パパ本当?ありがとーう!!」
「は?ちょっと待てよ、何も言ってないんだけど…。」














台所は笑い声に包まれていた。
窓から入ってきた、夕日の中を通り過ぎてきた風が気持ちよかった。
遠くで学校のチャイムが聞こえた。
林檎の入った皿は、気づいたら空っぽになっていた。






























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