月夜の奏でる旋律を…月夜に零れ落ちる優しさの欠片を集めて。
月夜の揺るぎ無い想いを、永遠に終らない月夜の音楽を…貴方だけに。





















































































「3分内に公園に来てくれないと、もうピアノなんて弾かないから」















私はというと、真夜中の2時に公園に居座り、彼氏を呼び出す大馬鹿者だ。
私が今いる小さな公園は2、3本の外灯があるだけで真っ暗だ。
風の音だけが虚しく響き、葉もろくに付けていない木々が揺さぶられている。
特にやる事もないので風の音を頭の中で楽譜にしてみる。
膝小僧は風に当たり真っ赤になっていて、あまり感触がなかった。
唇だって乾燥していて皮も剥けているし、ひりひりする。
皮を剥いては唇を舐める、先ほどからこの動作を繰り返していた。
手だけは無意識のうちにしっかりと手袋をしていた。
私はピアノを弾く身分であるから指は何よりも大切なのだ。
…こんな事は今はさほど問題ではない、コートを着てくれば良かった。
ここまで暗くて寒いと不審者すら、いや、もう人間自体がいない。
私の呼吸だけがこの場所に存在していて、私と風だけが息づいていた。
心臓の音だって落ち着き過ぎていて、今にも止まってしまいそうで怖くなる。
唯一、手元の携帯の小さなディスプレイが光を帯びていて、私の顔を明るく照らしていた。
メール送信完了と表示される画面をじっと見つめながら、
冷え切った小さなベンチに腰をかけ、ただ時が経つのを眺めていた。



















3分…彼の家からここの公園までは走っても5分はかかる。
だから3分でここまで来るのは、無理なことくらい判っている。
それに私はピアノを辞めるつもりはまったくない。
つまらなく感じている訳でもないし、今日だって大学の先生に褒められた。
でも私には技術依然に欠点がある。
私には表現力がない。
私は表現力に乏しいから、表現したいものが音で表現しきれなくて、
音の発信源である心に溜まったままになってしまっているから、時々溢れ出してしまうのだと思う。
私には心がないのではないかと本気で悩むこともある。
鍵盤の上に指を置いてどんな演奏をしようとも、私の心はぴくりとも動かない。
表現したい事はたくさんあるのに、どうも指だけが虚しく動いている。
今日だってお風呂上りにドビュッシーの「月の光」を無性に弾きたくなって、
髪も乾かさないまま弾いたら、何故か悲しくなって立っていられなくなった。
この曲は決して悲しい曲ではない。
演奏家にとって心が乏しいというのは、技術以前の最大の欠点だ。
私には形の無いものを形の無いもので表現するなんて器用な事は出来ない。
音に優しさや悲しさを込めることも、音に季節を与えることも、音に温度を持たせることも出来ない。
音楽とはその場に存在しないものを目で見えない音というもので表現するもの。
ドビュッシーの言葉の通り、「音楽は嘘の中でも最も美しい嘘」なのだ。
私は音楽に向いていないのかもしれない。
…私のついた醜い嘘は今頃彼の元に届いただろうか。
メール送信時間は2時12分で、ただ今の時刻は2時14分。
タイムリミットまではあと1分。
私は何を期待しているのだろう。

























あ…





























ほら、やっぱり来てくれた。
やっぱり…ちゃんと来てくれた…。





























「…っ、おい!加奈子!!テメー何考えてんだよ!!」







「…良かった、やっぱり来てくれた。」






「まじしんど…っ、お前さ、3分とか普通に無理だろ?!」






「うん…知ってた。」






「知ってるなら少しは考えろよ…っ、家から猛ダッシュだし…っ。」





「でも来てくれるってことも知ってた。」






「……ったくよ。」






「でも耕助だって私がピアノ辞めないことくらい知ってたでしょ?」






「………。」






「ありがとう。」

























顔をあげると目の前にコートを羽織った耕助がいて。
耕助は息を切らしながら、自宅から公園まで走ってきてくれた。
靴のかかとも踏んでいるね、息も上がっているね、
コートだって前を締めなきゃ意味がないでしょう。
………ありがとう。
私は耕助の家からここまで走っても5分かかることだってちゃんと知っている。
でも耕助は文句を言いつつも、3分でちゃんと来てくれることだって知っている。
耕助が私がピアノ辞めないと判っていることだって知っている。
私はいつもこうやって貴方の優しさに甘えているね。
いつも私のわがままに怒るけど、ちゃんとその後に笑ってくれる。
貴方は本当に優しい人だよね。
それはきっと私だけが知ってる…自意識過剰でもなんでもない。
だから私しか知らない貴方を私に見せて。




















貴方の優しさをこの手に集められたら、何よりも美しい音楽が生まれる。






















「よっこいしょ、あー…疲れた。お前、後でなんかおごれよ。」
耕助は私の座っている冷たい小さなベンチに腰をかけた。
「いいよ。何がいい?」
「そーいや、俺まだ夕飯食ってないんだった。まぁー…なんでもいいや。」
「じゃあ私が何か行って作ってあげる。」
「ほんとに?助かる。で、加奈子さ、お前今日はちゃんと大学行ったの?」
「行ったよ。ショパン弾いた。」
「ふーん。ショパンか…全然判らないや。」
「中学で少しは習ったでしょう?」
「……よろこびの歌を歌ったのは覚えている。」
「それはヴェートーベン。じゃあ、耕助は今日何をしたの?」
「俺?俺はー…まあいつもと変わらず法律の勉強だよ。」
「残念。法律は、私には判らないわ。」
「ちょっとは中学で習ったの覚えてるだろ?」
「天皇は日本国民の象徴なんでしょう?」
「ま、まあ…。」
「私は中学校では野ばらが一番好きだったなぁ…。」
「あ、それなら俺も知ってるかも。」
「わーらべーはみーたりー…のーなかーのばーら………」
「…その次も歌えよ。」
「忘れちゃった。」
「朝とく清く、嬉しや見んと、走りよりぬ、ばらばら赤き、荒野のばら…だっけ?」
「すごーい!でも、実は私はドイツ語の方しか知らないの。」
「中学生でドイツ語歌ってる方がすげぇよ…。俺は日本語しか知らないな…。」
「あはは、音楽は世界共通だよ。あとで耕助んちで弾いてあげる。」
「俺んちピアノないじゃん。」
「あれでいいよ、いつだかのおもちゃの。」
「あんなんでいいのか?未来のピアニストが。」
「ピアニストだっておもちゃで遊びたいわ。」
「そ、そう…じゃあれも弾いてよ、加奈子が好きって言ってたやつ。」
「月の光?」
「そう、それそれ。」
「…いいけど。」
「てかさ、まじ寒くね?!」
「うん…寒いね。今気付いたの?」
「っ…、俺は走ってたからさっきまでは暑かったんだよ!」
「あ、そっか。」
「お前コートも着ないで寒いだろ?これ着てろよ。」
「え…だってこれ耕助のじゃん。」
「見てるこっちが寒いんだよ…試験近いんだろ?風邪ひいたらまずいじゃん。ほら」
「あ、…ありがとう。」
「そろそろ帰ろうぜ。寒みー。なんか作ってくれんだろ?」
























耕助の貸してくれたコートは少し大きかったけどすごく暖かかった。
これ、この前コーヒー牛乳こぼしたやつだよね…ちゃんとクリーニング出したのかな…。
なんて。貴方の優しさが心に染みてとても暖かい。コートよりも、何よりも。
私はゆっくりと立ちあがり、野ばらを歌いながらスカートをはたいた。
先ほどと同じく、続きの歌詞が判らなかったから、全部ラで誤魔化した。
耕助が先に歩き出してしまったので慌てて追いかけた。
耕助は音楽を本当に知らなくて、ショパンとヴェートーベンの違いすら判らない。
でも私がピアノを辞めないことは、ちゃんと判っていてくれている。
だから嬉しい。
別に私のことを判ってくれていれば、耕助がショパンやヴェートーベンを判らなくても構わないのだ。
私だって法律は全然判らないけれど耕助が来てくれる事はちゃんと知っているもの。
だから私だって耕助のことを判っていれば、法律は判らなくてもいい。
私は野ばらはドイツ語の歌詞しか判らないし、耕助だって日本語の歌詞しか知らない。
でもメロディーは耕助も私も知っているでしょう?



















私たちは黙って手を繋いだ。
鍵盤の上で一人で悲しく踊っている手も、こうしていれば寂しくない。






















「歩くの速いよ。」
「あ?」
「歩くの速いってば。」
「お前が遅いんだよ、引っ張ってやってんだろが。」
「…小学生みたい。」
「うるせーな、手離すぞ。」
「あ、だめ、ごめんなさい。」
「判ればいいんだよ、判れば。」
「…ははっはは、」
「何がおかしいんだよ?」
「え?別に…ふふふ。」
「きもち悪りぃ奴。」
「あははは、あ…」











曲がり角に出た所で、私は急に立ち止まった。
耕助の私を引っ張っていた力が手に響いた。
「なんだよ、急に止まんなよ、」
「見て…ほら、月がすっごくきれい…。」
「月…?あ、ほんとだ。」
「私とどっちがきれい?」
「月。」
「…………。」
「う、嘘だってっ、加奈子の方がきれいだって、なっ?」
「そんなに慌てなくてもいいのに……ドビュッシーはどんな月を見てあの曲を作ったんだろう?」
「ドビュッシー…?月の光の人?」
「そうそう。何を見てあの曲を作ったんだろう…それが判ればきっといい演奏が出来るのに。」
「んなもんそいつに聞くしかないだろ。」
「それが出来れば苦労しないでしょう。あー…どうやって弾いたらいいのか判らない。」
「んなもん加奈子の好きな通りにやっちゃえばいいじゃん。別に作曲者が聞いてる訳じゃないんだし。」
「そんな簡単に…。」
「だって作曲者のために弾いてる訳じゃないだろ?加奈子の演奏は加奈子のもんじゃん。」
「……。」
「なーんて、音楽知らないくせにでしゃばり過ぎました…。」
「………。」
「加奈子ー…?」
「じゃあ耕助の家に行って弾く月の光は耕助のためだね。」
「そ、そうなの?」
「うん。耕助のもの。」
「そりゃどうも…。まぁ、どんな演奏だって俺は加奈子のピアノが好きだけど。」



















永遠に終らない音楽があるとすれば、それは貴方への想い。

















「私のことも?」
「…まぁ、うん。」
「私…耕助の事好きだけど、耕助の法律のことはよく判らないわ。」
「いいと思うよ…それで;てか俺の法律なんてねぇよ。」
「ねぇ、こっち曲がろうよ。」
「は?そっちは俺んちと反対方向だろ。」
「知ってるよ。だってこの月をずっと見ていたいんだもん。」
「俺んちでも見れんだろ。」
「だめ、耕助と手つないでたいんだもん。だって、手を繋ぎながらはピアノは弾けないよ…?」
「………じゃあコンビニでもよってから帰るか?」
「…うん。ねぇ、月を追いかけて歩いていったらどこにつくかな。」
「さぁ…。地球は丸いから一周してここに戻ってくるんじゃないの?」
「それは違うよ。月に行くんだよ。」
「そっちの方が違うんじゃねぇの…;?お前馬鹿だろ…。」
「だってほら、見て。あの月の出てる所って耕助の家の方じゃない?きっと耕助の家の上にあるんだよ。」
「ははっ、すげぇな、俺んちも。」
「だから、あの月の方に歩けば耕助の家に着くよ。」
「そうかも…な。じゃあ、寂しくなっても変なメール送る前に、月の方に歩いてこいよ。月の下で待っててやるから。」



























月夜の奏でる旋律を…月夜に零れ落ちる優しさの欠片を集めて。
月夜の揺るぎ無い想いを、永遠に終らない月夜の音楽を…貴方だけに。




















「あー腹減ったなー…、あ!そうだ、鍋でもしようぜ、鍋。」
「あ、いいね。寒いし。月の下でお鍋なんて夢みたい。月見鍋、月見鍋。」
「それ違うと思うよ…。月の下で鍋…なんだかな…;」

























私の指から零れ落ちた音楽は、あの月の元へ。
貴方の優しさ、私の愛情、すべてあの月の元へ。
























































あの月の下で いつでも 貴方は 私を 待っていてくれる。
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